観光景観 / 白浜・白良浜
白良浜の白い砂は、海を渡ってきた
歌に詠まれた白砂の名勝が、外国の砂で守られている。白良浜の白さを残すために、人は何を選び、何を手放したのだろう。

雪のような白い砂は、昔から名物だった
白良浜に立つと、真っ先に砂の白さが目に入る。青い海との境目がまぶしい。背後にはホテルが並び、水着姿の人が歩く。南紀の海辺に、南国のビーチリゾートのような風景がある。
けれども、この白さは近代の観光開発が生み出したものではない。古い歌謡「催馬楽」にも白良の浜が登場し、江戸時代の『紀伊続風土記』は、その砂を雪のように白いと記している。海水浴場になるずっと前から、人々はこの白い浜に心を惹かれていた。
町の名にもなった白さ。土地の人には、ただの観光資源ではなく、ここが白浜であることの証しだったのだろう。
ところが、今日この浜に広がる白砂の一部は、オーストラリアから運ばれてきたものだ。昔の歌人が見た白い浜を、遠い国の砂で保っている。その話を知ると、足元の砂の見え方が変わる。
岩から生まれた白さが、少しずつ失われた
白い粒の主役は、石英という鉱物である。もともとの白良浜には石英を多く含む砂があった。周辺の岩石が風化して砕け、水に運ばれてきたと考えられるが、もとの砂の供給源には諸説ある。寺谷川の上流から届いていたという説も、その一つだ。
砂浜を形づくるのは、無数の砂粒だ。一粒一粒の砂は波に押されて沖へ動き、海岸に沿っても流される。川などから新しい砂が補われれば浜の幅は保たれるが、出ていく量のほうが多ければ、砂浜はやせていく。
白良浜でも、昭和後期には砂が減り、岩が顔を出す場所が増えた。周囲の開発によって新たな砂の供給が減った可能性が指摘されている。名勝をつくった自然の働きだけでは、名勝を保てなくなっていた。
白浜の自慢を、外国の砂で守る
行政が選んだのは、外から砂を運んで補う「養浜」だった。しかも、国内のどこかではなく、西オーストラリアのパース周辺から、もとの浜によく似た白い砂を運んだのである。
和歌山県議会では、1989年度から2000年度までに約7万5,000立方メートルの砂を投入したと説明されている。白浜町議会では、より長い事業期間の輸入砂と工事費についても、多額の数字が示されている。白い浜を守るのは、大きな公共事業だった。
ここに、この風景のいちばん難しいところがある。
守りたいのは、古くから歌われてきた白良浜そのものだ。ところが、昔からの白い砂を失わないために、外から新しい白い砂を入れる。見た目が戻れば、それは昔の浜と同じだろうか。外国の砂が混じった時点で、故郷の自然は人工の景観になってしまうのだろうか。
そもそも輸入された砂も、自然の鉱物である。「外国製の人工物」と呼ぶのは正確ではない。それでも、浜を構成する材料を海外から買い、運び、配置するようになれば、白さは自然に与えられたものから、人が維持するものへと変わる。失いたくない土地固有の風景を守るほど、その風景を人の手でつくり直すことになる。 その矛盾は簡単にはほどけない。
この選択には、さまざまな思いが交錯したはずだ。のちの県議会では、砂を追加しても定着しないという効果への疑問や、堤を築けば白い海岸線の眺めが損なわれるかもしれないという懸念も語られている。美しい景色を守る方法自体が、別の景色を変えてしまう。その難しさを、白い浜は今も抱えている。
以前の白良浜は、踏むと音がする「鳴き砂」の浜でもあった。輸入砂だけが原因だと断定はできないが、今は鳴きにくくなったとされる。また、オーストラリア由来のカブトエビについて、輸入砂に混じった卵が侵入経路だった可能性を指摘する研究もある。経路は推定で、生態系への影響もまだ明らかではない。白さを取り戻すための仕事が、砂の音や生き物にも関わっていたかもしれない。
白い浜を残すには、波とも折り合う
補った砂も、やはり波で運ばれる。流出を減らすため、突堤や離岸堤、海中の潜堤が設けられ、背後には階段状の護岸が整備された。砂浜は観光客のためだけでなく、打ち寄せる波の力を弱め、町を守る役割も担っている。
それでも砂を足し続ければよいわけではなかった。県は砂が十分に定着しないと判断し、2019年には砂浜をさらに広げる案から、既存護岸のかさ上げへと方針を切り替えた。白い砂を守ること、波から町を守ること、海辺の眺めを守ること。その三つが、いつも同じ方法でかなうわけではない。
夕日が差す浜をもう一度見る。白く光る粒の中には、紀伊半島の岩から生まれたものも、海を越えてきたものもある。それを波が分け隔てなく洗っている。
遠い昔から人が美しいと呼んできた浜は、いまも美しい。ただ、その白さを未来へ残すとはどういうことなのか。足元の砂が、静かに問いかけてくる。