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信仰景観 / 那智勝浦・那智山

那智の滝の場所を決めた二種類の岩

那智の大滝は、二種類の岩の境目に生まれた。滝の下の飛瀧神社、山上の熊野那智大社、門前の黒飴まで、石をたどって旅をする。

鳥居の向こうに那智の滝が落ちる飛瀧神社の風景
  • 地質境界
  • 火成岩
  • 堆積岩
  • 多雨

滝があるのは、岩の境目だった

杉木立の中を進み、飛瀧神社の鳥居をくぐる。正面に社殿はない。落差133メートルの那智の滝が、白い水を落としている。ここでは滝そのものが御神体だ。

見上げるほどの岩壁は、なぜこの場所にできたのだろう。紀伊半島の大地は、大きく分けて三つの地質体から成り立っている。海のプレートの沈み込みによってできた「付加体」、その上の浅い海に堆積した「前弧海盆堆積体」、そして地下のマグマの活動で生まれた「火成岩体」だ。

那智の滝は、後ろの二つの境界にある。比較的削られやすい堆積岩と、侵食に強い火成岩。川は長い年月をかけて岩を削り、硬い岩が残る場所に大きな段差をつくった。雨水が落ちる場所を決めたのは、山の奥に隠れていた二種類の岩だった。

ここは「南紀熊野ジオパーク」を代表する場所でもある。滝を眺めているだけで、海底の堆積と遠い昔のマグマ活動が出会うところを見ているのだ。

那智の山には、ほかにも滝がある

那智の滝といえば、この一ノ滝が圧倒的に有名だ。けれども上流には二ノ滝、三ノ滝があり、那智四十八滝と呼ばれるほど多くの滝が山中にある。

地質の境目や岩の割れ目、削られやすさの違いは、川の流れのあちこちに段差を生む。もちろん、那智四十八滝のすべてが一ノ滝と同じ地質境界でできたわけではない。それでも、一つの大滝を入口に山を考えると、見えない場所にも、岩と水の長い仕事が続いていることに気づく。

滝の下の神社と、山の上の大社

飛瀧神社からずっと上へ登ると、熊野那智大社がある。滝の前では水そのものを拝み、山腹では立派な社殿に向かって手を合わせる。この二つの場所の関係は、いったいどうなっているのだろう。

実は、飛瀧神社は熊野那智大社の別宮だ。別々の神社がたまたま近くにあるのではない。熊野那智大社の公式な由緒によれば、もとは滝のもとで熊野の神々を祀り、仁徳天皇5年(317年)に山腹の現在地へ神々を遷したと伝えられている。これは社伝上の年代であって、社殿がその年に建ったと歴史的に確定しているわけではない。

それでも、今の配置は興味深い。滝という自然そのものを拝む場所が下にあり、その上に社殿を構えた大社がある。信仰が滝から山腹へ広がったという伝承を、山道を歩きながら思い浮かべることができる。

那智山はやがて修験者が修行する場所となり、平安時代には上皇や貴族も熊野を参詣した。花山法皇が滝に籠もったという伝承も残る。熊野那智大社のすぐ隣には青岸渡寺が建ち、神仏が一体となった祈りの歴史が重ねられてきた。

今も七月の扇祭りでは、山上の大社から十二体の扇神輿が滝へ向かう。神々が滝のもとに戻るような祭りの道筋にも、二つの場所の深いつながりが見える。

滝の前の店は、黒飴でいっぱいだった

滝を拝んで門前へ戻ると、目の前の土産店には「那智黒」ののど飴が大量に並んでいた。滝の白い水を見たばかりなのに、こちらは真っ黒。あまりにたくさん置かれているので、那智の名物なのだとひと目でわかる。

那智黒の名は、もともと那智黒石という黒い石に由来する。磨くと艶の出る石で、囲碁の黒い碁石や硯に使われてきた。黒糖でつくった丸い飴は、その碁石をかたどったものだ。石の色と形が、食べられる土産になったのである。

ところが、ここにも意外な地理がある。那智黒石の主な産地は、那智の滝のそばではなく、県境を越えた三重県熊野市神川町だ。黒く緻密な堆積岩が採れ、加工されてきた。那智の滝を形づくる火成岩とも、同じ石ではない。

それなのに、名前は「那智黒」。那智黒石という呼び名の成り立ちにはいくつかの説があり、熊野川を下った黒い石や那智参詣の土産との関係が語られている。もともと遠くの山にあった石が、祈りの道や商いを通じて、那智という名と結びついていったらしい。

滝の位置を決めた硬い岩と、碁石になった黒い岩。生まれも性質も違う二種類の「石の物語」が、同じ旅先で重なった。

もう一度、店先の黒い飴を見る。少し前まで見上げていた白い滝が、妙に近く感じられる。紀伊半島を旅すると、石は地形をつくるだけでは終わらない。人が拝み、磨き、売り、食べるものにまで姿を変える。